208

1121

mog1032005-11-21

 ふと思ったのだが、ソクラテスの言ったことなり考えた事が今この時代にまで残っているというのはどういうことかと言うと、ソクラテスという強靭な槍投げの選手の投げた槍が、この時代という名の地面に突き刺さっているということなのではないだろうか。構造として。
 ソクラテスについて言えば彼の生きたのは紀元前4世紀頃というから、長々2400年もの間、彼が飛ばした槍は飛び続けている。しかもおそらくそれは、まだまだこれからも飛行し続けるのだろうから恐ろしい。
 どうしてこんな事を考え始めるのかというと、つい数年前まで真理のように扱われ、実際自分もそうだとして扱っていた風潮というものがあったとして、今となってそれを信じていたり良いとしている人を見ると馬鹿だなーと思う私が、一方では「馬鹿に出来るのだろうかその人たちを、馬鹿に出来るのだろうかかつての私を」と思ったことがきっかけである。説明を進めると、その上でさらに僕は「いいじゃん、馬鹿にしたって」と思った。先人たちの知恵や遺産を、後世に生きる僕らは好きなだけ馬鹿にしてよいのだ。なぜなら、人間の歴史などというのはたったの300万年ぐらいのもので(アウストラロピテクスさん達から数えてだけど、というか「地球の歴史が1週間なら、人類の歴史はわずか1秒あまり」だそうだ→http://spaceinfo.jaxa.jp/note/shikumi/j/shi04_j.html宇宙航空研究開発機構JAXA)提供)、そんなのは地球がこれまでに過ごした悠久に比べればわずかに過ぎず、その地球の年にしたって宇宙が過ごした百数十億年に比べればケシ粒にも満たない。そして必然の帰結として、そのようにして遡った果てにある「時間の始まり」を実際には全く説明の出来ない僕を含めた総ての人間が、馬鹿にされ得ない真理を言い当てられるはずはなく、何かその瞬間には「凄い!」と思われたファッションなり思想なり芸術があったとしても、後世に残らないことを悪いことだとする理由などどこにもないと思うに至ったということが大きい。
 言い換えれば、恥かしくって良いのだ。数年前に良しとされた髪型と服装が今見て恥かしいものだとして、それは人間ごときのやることなのだから仕方がなく、ということはそれら髪型や服装を断罪したところで断罪者は全く後ろめたい思いをする理由はない。勿論、被断罪者にあっては言わずもがなである。
 などと言うとそれはまるでルサンチマン(恨み)の塊であるところの僕が開き直る理由を声高に自分にのみオルグっているようだがそういうのでもなくて、ただ僕はその話の流れとして、そんなに人間の歴史がちっぽけなものであるのだとしたら、日本から見たブエノスアイレスのごとき真反対にあるようにさえ感じられるほど昔の人間、たとえばソクラテスなどといった人も、宇宙の歴史規模の時間軸を用いて考えることで、つい3分前に道の向こうで会って別れたばかりの知り合いのごとく身近な人間として考え想像することが出来るのではないかと思い、またその自分の思いつきに非常に安心を感じたのである。
 ソクラテスに僕は生きてるあいだに実際にお会いすることは出来ないが、しかし同時に友達や家族のように彼を想像する余地はある、ということを僕はこれまで一度だって考えたことはなく、彼がいつ生まれていつ死んだのかということさえ知らなかったのだが(当たり前だ)、そのくせ自分は彼と間違いなく異なる存在だと、端から決め付けていたのが面白い。それは普通だが、面白いのだ。
 そしてまた、そんな身近な存在であるのだとしたら(たった2400年前に生きていただけならば)、彼の言ったことを僕が知っているという現実は決しておかしな状況ではないのと同時に、もっとたったの(もっとたったの)2,3年前に起こったある種のことが、蔑みの対象にしかならないということが面白い。それは、つまり「耐性」の問題だ。
 ソクラテスの言ったことは遥か2400年の時を経て未だに錆び付くことなく耐性を保っているが、数年前の流行が今となってどれだけ馬鹿らしく見えることか。おい、カリスマ美容師って何だ?戦争って何だ?
 思うのだが、ソクラテス君に出来たことなら僕らの内の誰かにも(と言う時の「僕ら」は「僕が生きている内に出会える誰か」という意味だが)、今後2000年を経て幾星霜、どこまでも飛び続ける耐度の高い思考のアーチを描く槍投げが出来るのではないだろうか、普通に。
 と、ここでようやく登場するのが先日『大谷能生フランス革命』第4回のゲストとして登場した岸野雄一氏で、僕はこのイベントをより豊かに聴講するために少ない時間を縫って岸野さんのサイト内bbs総ての書き込みを読んだけど、この方の投げている槍はかなり遠くまで飛ぶだろうと思う。それは件イベント主宰の大谷さんにも勿論言えようことだが、そうして考えていくと未だに僕の日々やっていることなんて足りない足りない。という、このような「日々の営みを充実させることを常に考えましょう」的な話は、より薬理としての純度を高めたスティーブ・ジョブスさんのこのスピーチ→http://pla-net.org/blog/archives/2005/07/post_87.htmlでも読んでラリって頂くのが(本気で)一番良いと思うのでそっちはジョブスに任せてこっちの論を進める。
 このエントリーを通して僕が言いたいのはしかし、「特別な人間になろうよ!」といったことではまるでない。そうではなくて、人間の考えたり言ったりやったりしたことというのは、これまでちょっと想像したことなかったけど、「2400年以上の時を超えて後世に伝わる」可能性を常に孕んでいる、という事実である。
 ここは個人的に言ってかなり面白いところなのでもう少し細かく進めるが、例えば「特別な人間になろうよ!」という煽りを、上からの流れを補足して言うと「君も、岸野さんやソクラテスのように特別な人間になろうよ!」となるのだが、ずばりそんな事を言うのは間違っている。と言うのは、岸野さんやソクラテスのようになりたくないというのではなくて(なりたい)、また、特別な人間になりたくないというのでもなくて(なりたい)、特別な人間というのは、そうしたすでに名のある人たちばかりではないという意味で、間違っている。
 初めて火をおこした人の名を、ウニが食べられるものだと教えた人を、フリース製品を日夜改良する人の名を、僕は知らない。知らないが、それらは多くの人間に永く継がれる遺産を与えた特別な人たちであり、彼らの投げた槍は見えない先まで飛行する。
 さて、そもそも僕がこのようなことをふと考えたのは、実は昨日観に行ったsimのライブ中にもずっと頭にあった、このところずーっと僕のメイン命題としてある問題の流れにあるのだが(simの音楽性はその問題とリンクしないではないが、ここでは単に「そのぐらいずーっと」という意味で挙げました)、その問題は何かというと、

1)時間をどこまでも遡って行くと、果たして宇宙に始まりはあるのか?あるのだとすれば「その前」が必然的に召喚されるが、ないのだとしたら(実感としては、「今」が永遠に続くように思えるので「ない」気もするがしかし)、それは証明が出来ない。証明が出来ない上に立つ現実なんてあるのか?
2)また、人間は必ず死ぬが(経験的、常識的に)、にも拘らず、どうせ死ぬのに、誰かが(主に僕の好きな誰かが)何かを一生懸命やるのはなぜか?

 といったことであり、しかもとりあえずの結論がライブ後にしばらくしてついに出たのだが、このエントリーは随分長くなったので、続きはまた別のエントリーに書きます。というか、本当はそちらの方が僕的にはメインの問題なのだが。で、ここで書いたことはもしかするとあらためてもう一個のブログの方に転載っぽく書くかもなのでその際はリンク張ります。
 関係ないけど東大菊地ゼミ講義録最新版も毎日更新してるのでよろしくです(本当に関係ない)。→http://note103.jugem.cc/