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1102註釈

まず何であれ、スタートする事が大事なのだ。
書かなければならないということはわかっていて、そうしないと文章が始まらないことをもうすでに十分に身をもって知っているはずなのになかなか出来ずにいるのは本当に重要なことを忘れているからか?よくわからない。本当に重要なことってなんだ?あ、一人語りか。
このエントリーは、本来であればとあるイベント・レポートのために人知れず書かれるはずのもので、推敲を繰り返して公開されるはずであったのだがどうしても誰かに読まれるという目的、エロスを持たないでは書き始められなくてそれで結局こうしたブログ上で書くことになっています。頑張れ、俺。

アートの本をいくらか読んでいたら、アートは面白いのだが日本のアートは荒野に近い。というか全然面白くない。日本人には面白い人がたくさんいる(はずな)のに、アートとなるとつまらなくなるのはどうしてかと考えると、そういうカテゴライズ自体がこの国では現在のところ間違っている、成り立っていないということなのだろうと思う。単にアートがもっと金になったらアーティスト志望が増えていいのだろうか。奈良さんや村上さんのようなスターがもっと増えたら良いのだろうか。せめて外国の(あるいは昔の)カッコいいアーティストをもっと紹介する機会が増えたらいいのだろうか。哲学同様、アートは人間を絶対に元気付けるものなのでそこら辺を何とか開拓したいところだ。
とはいえこのように言わばアート部外者のような人間がアートはどうこうと今さらのようにしてグダグダ言うのは、下北再開発について後から入植してきた人間が地元の意見もないがしろに自らのファンタジーを遺すべくウダウダ騒ぐのと近い気が凄くする。それがいいとか悪いとかじゃない。ただみっともないというだけなのだ。意見を闘わせより深いレベルで問題をこなすことは重要だが意見の違う相手を異民族のごときわからず屋として捉え馬鹿にするような姿勢はやっぱり醜い。
重要なのは、意見を表明して真正面からそれを吟味し合うことでそれ以外にはない。

ここには書かない原稿で、イベント・レポートの具体と、懐かしいメロディの退屈と快楽について書く予定。昨日は思いのほか早く寝てしまったので、今日はやんなきゃな。

語り掛けるということが肝要で、どれだけひとり言の体をとっていたとしても、それはやはり他人への呼びかけである。これがどこまで届く呼びかけで、どこまで届くことを意識されているのかと言えばよくわからないのだけど。道具としてまたどこまで活用しやすいものであるか、僕に適したものであるのかはよくわからないのだけど。

気がつけば僕はどうやら、遺言を書いている。
といってもそれは必ずしも、僕が死についてばかり考えているからというわけでもない(考えてもいるのだが)。僕はつまり、世界の始まりのことについてばかり考えている。時間をいつまでも遡って辿り着ける場所、それは一体どこなのか。僕が考えたところによれば、それは「確認する事の出来ない、想像する事でしか存在しない場所」であり、「わからない」である。そして、おそらく我々総ての生物は、その「わからない」を根拠に存在している。
はっきり言って、そんなこと考えて生きてる人なんてどれだけいるだろうか。といっても、僕は別にそれを考えずに生きる事が悪いことだと言ってるわけではない。むしろ大事なことはそれとはちょっとズレた場所にあって、大事なことは、今ここに生きているということを何よりも大切にするということだ。「わからないこと」については、この生が終わってからでも考えれば良い、と言いたいぐらいに、「今ここにある生」の重要度は高い。しかしまた同時にやはり、「今ここにある生」の重要度を、よりありありと自覚するためには、その「我々がわからないを根拠に存している」ということを意識する事が有効にもなってくる。
気がつけば、僕はどうやら遺言を書いている。
イベント・レポートの註釈を書き始めた頃、チェルフィッチュの稽古場を見学させてもらったその日以降のことだと思う。本当に大切なことは何なのか。それは、一見バカバカしく見えることなのかもしれない。何のためにそんな事をするのかと、思われそうなそれなのかもしれない。しかし何よりも大事なのは、限られた自分の生を、限られたその時間の中で(いつがリミットであるかも知らされないその中で)、ただ使い果たすということなのだ。