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冬季オリンピックのスキー・ジャンプ競技で、飛び出してから着地するまでのフラフラした数秒間。それが人生なのだとしたら、その限られた時間にやったやられた・ついた離れたと騒ぎ怒り憎しみ過ごすなんて何だか滑稽だ。下北もハルとナツもメガネ男子もそんな苛立つことじゃないよ、どうでもいいじゃないか。本分を見つけやり遂げろよ、と思う。でも人生がそんな一瞬だなんてこと、飛んでる間にはどうしても忘れていて、今の自分の姿勢はどうかとかどこまで飛べるかだとかその時のことしか考えられないのだから、仕方がないと言えば仕方がない。
The Essential Sounds From The Far East交通事故は毎日起こるが、そしてそれで人は毎日死ぬが、それはTVの向こうのフィクションでしかなかったと、そのことに気付かずにいたことに気付く。一夜にして巨大な女性が二人亡くなった翌日に。
註釈はなかなか進まないな。当たり前だ下地仕事ばかりしているのだから。それにしても僕が作らなければならないのは、まず第一にこうした「下地」であるのと同時に、それとは別の、何というか美しくありうる形を導く大いなるイメージのようなものであるのだと思うのだが、それには全然手をつけられないでいる。というか、手をつけているつもりなのだが全然届いてない印象。或いはこうした振り返る作業の先にもそれはあるのかもしれないが、そうして思い返すだけではやはり時間がかかりすぎるだろう。常にそのイメージを思い描こうとしていなければならない。常にそのイメージを。
美しくあり、斬新であり、かつてのものを壊したもの。それを導くイメージの像。それはきっと下地やバック・グラウンドといった言い方では言い切れていない何かで、大事なのはそれなのだ。それは多くの人と共有できるものかもしれないし(時代を超えて尚)、また一個人における複数の作品の内に共通してあり得るものでもあるかもしれない。イメージ。それを想像しながら作業は常に成されなければならない。