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ところで同世代で凄い人といったらこんな人もいて、それは哲学者の(間違いなく哲学者なのだが、そういう肩書きが何だか変に感じられるのも事実で、いわば思考の職人、ということなのだが)西條剛央さんである。
構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理
この方は構造構成主義という、それだけを聞くと「まあ、何かの主義なんだろう」という、漢字6文字であるということ以外には良くわからなさそうなことを研究というか理論化した人で、僕なりに要約して言えば、『よく生きるための具体的な方法』というのを日夜考えては実践している(それを哲学者という以外のなんと言えばいいだろう)。
とはいえ、僕はこの方の著作をまだ読んだことがないので(いろんなところで探したのだが、取り寄せなければならなそうなのだ。あれ、でもはてなで画像が出るって事は、もう結構流通してるのかな?また探してみよう)、もしかすると全然駄目なんじゃないか、僕にとって、という怖れも全くないわけではないのだが、というより読んでもいない本の著者を薦められるのかという気も一瞬したのだが、いやそうではないのだやはり。何でかって言うと、僕はミクシィなどで彼の発言をすでに様々聞いていてそれで信用をしているのだった。あーよかった。
ということで西條剛央さんである。この人の活動はますます加速、右肩上がりである。勿論、その土台としてこれまでの、そして今尚続く地道な思索が欠かせなかったことは確かだが、この勢いをレポートしない手はないと僕は思っている。よく生きたいとは僕だって思っていて、そう思っている総ての人にお薦めできます。あ、そういえばブログやサイトもやってらっしゃるのでリンクします。

西條剛央ブログ http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/
■構造構成主義公式HP http://www.geocities.jp/structural_constructivism/
■構造構成主義Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9

ちなみに、そのサイトやWikiの運営は主にサポーターさんがやってらっしゃるようなのだが、西條さんが若いということもあってか(多分その要因は大きい)、この方にはその思想や活動に共鳴するサポーターが多くいて、それはしかしサポーターとは言ってもただ言われたことをやる主従の従の関係にあるのでは全くなく、独自の人生の上で、西條さんの提起を活用して行こうという姿勢で動く、いわば実践者たちでなのある。なので繰り返しになるが彼らサポーターたちの(ここでは便宜的に繰り返しサポーターと言うけれども)主は西條さんではなく彼ら自身であり、尚且つ西條さんを慕ってもいるという、かなりいい感じのヴァイブスがそこにはあって、その辺りも僕が西條さんの活動に魅力を感じる要素になっている。


1104註釈

この日記は、僕がお手伝いさせてもらってるイベント・レポートを書くために積んでいる思考を書き留める場所です。
ASHのベスト聴いてます。カン・フーとサムタイムスとキャンディは最高だ・・・キャンディはバカラックの「メイク・イット・イージーなんとか」へのオマージュだろうなあーすんごい良い曲だあ。これ、クリップも凄い良かったなあ。

http://6717.teacup.com/sokkurimogura/bbsでは菊地さん凄いリラックスしてプロレスのこと書いてるなあ。僕は小学校3年ぐらいの時にキン肉マンとか流行ってミル・マスカラスとか馬場とか猪木とかリアルタイムでTVで(TVで!)観てたけど(テレ朝で金曜夜8時からやってた新日本プロレスの実況は今をトキメク古館伊知郎だった・・・翌日夕方放送の全日も観てた・・・ラッシャー・・・)、いつだろう、前田?のあたり?から何だかよくわからなくなった。シューティング?っていうか足蹴ってるだけ?みたいな?あの、元タイガーマスクとかいう佐山さんがキックばっかりするようになってそっからプロレスはお笑いみたいのとストイックみたいのに二極化したような印象で・・・。それ以来プロレスは「夢」と「カッコいい」の先にあるもっと茫漠とした曠野に向かって行って、気がつくと夢とカッコいいが好きだった僕はそこから取り残されっていう。そうやってひとつの楽しみを失ってしまった人も中にはいるのよ、と。まあいいか。
果てしなき渇き
ミクシィを覗いていたらマイミクさんの紹介で、作家の深町秋生さんのはてなを見つけて超面白い。件紹介リンクを辿ってアマゾンを見ると、「このミス」っていう多分このミステリーがすごい!とかいうあれだと思うのだけど、それの大賞を獲った人のようでしかもオラと同い年だ!凄い!でもそれ以上に気になるのはいわゆるカスタマー・レビューというやつで、一番上位にあるレビュー(”これが、「このミス」の大賞受賞作品なのか、と正直がっかりしました”で始まる・・・)は何だこれ、釣りだろっていうぐらい読みたくさせる不評レビュー。いや、本気でこういうこと言う人いるんだろうな・・・。というかマジョリティ?もしくは単にストレス解消で書いた文章か。でも結局そういうの(「グロテスク」や「白夜行」)みたいのがこの人の世界の果てって、裾野狭すぎで暗澹たる気持になる。でも実際いるんだよなあこういうのが、というか普通なんだよむしろそれ。感想は誰が言っても良いに決まっているけど、でもこれがろくに本を読んでない(冊数じゃなくて)人間の感想なんだってこと(間違いないよ)をちゃんとお知らせしとかないと営業妨害というか何というか。

1103註釈

ばるぼらさんがゲストで出演したイベントのレポートを書いているのだけど、その準備として『教科書』やユリイカ増刊のオタ・サブなどを精読した頃から、今さら(でも何でもないのだが本当は)蜂(http://homepage3.nifty.com/wtbw/)やニーツオルグhttp://www.neats.org/)を読むようになってこれらは掛け値なしに面白い。とくに蜂の気合の入りようと気の抜けようといったら頼もしくも逞しくて、こういう人がいるうちは世界は(僕の見るこの狭い世界であってさえ)期待できる面白ワールドなのだと思った。
ニーツオルグは、件イベント前にばるぼらさんに関する予備資料を集める際、ユリイカのブログ作法公開座談会に関するレビューがあった(”ありふれた事件#148”)ので閲覧したのが最初だったけど、それがちゃんと書いてあって面白くて、それでもしかすると今回のこと(去る9月19日・日)も書いてあるかと思ったけど書いてなかったのでそれは残念だった。でも忙しい忙しいと書いてあるので忙しかったのだろうと思う。ところで、それにつけても反映までに結構時間がかかるけどニーツオルグ、みんなあれが出てくるまで同じように待っているのだろうか。あ、俺のがPC古いだけなのか。
帰ってから、歌いたくなってもいいようにと思ったのだ。
昨日は結局註釈の本来を全然進められなかったので(それでも何もやらないよりはマシなことをしたと思う。ところで今僕はこれを必死こいて書きながらハナレグミの『帰ってから云々』というアルバムの中に入ってる「明日へ行け」という曲を聴いている。まごうことなき傑作。こればっかり聴いてもいい。あ、ところでおそらく昨日のエントリーでも書いたと思うが、「既聴感がもたらす両極端な2種類の感想」についてはそれでも何とか昨日中にケリをつけたというか別のログに書いて結論を一応出したのだから偉いよ俺やはり。何を言いたいのかというと、この曲は何度でも聴ける・・・)、今日は具体的にもっと頑張って進めよう。いつになるかはわからないけどイベントの本文原稿がアップされる際に(ってアップするのは俺でアップされる場所はオレのジオシティーズだが→http://www.geocities.jp/television2nd/index-home2.htm ちなみにここでのこの文章がやがて生成する註釈文の方じゃなくてホントのイベント模様を収めた本文原稿の方はマジ面白くなると思うので(詳細は書ける段階でまた書きますが)これはマジでお楽しみに)きちんとバッチリ間に合うように一緒にアップ出来るように頑張ろう俺。

憶えておかなければならないのは、忘れてはいけない事ほど忘れやすいということで、とにかく何を忘れてもいいからそのことは憶えておかなければならない。だから普段の状態でいる時にそれに満足しているとおそらく非常に勿体無いことになる。憶えておかなければならない事とは何かと言えば、それはひとそれぞれ違いはあろうがでもやっぱり「わかんないことは、ある」ということで、本当に大事な事はいつもちょっと気を許すと後ろに隠れようとするというか引っ込もうとする。だからいつだって気を抜くことは出来ないし、逆に言ったらそのことだけを必死に掴んでおいたらそれだけで結構マシなことにはなるのかもしれない。
というこの続きは註釈日記の方で書きますし、註釈日記っていうのはこのブログとリンクした個人サイト内日記ですが、それはばるぼらさんや大谷さんが増補して下さるイベント・レポートの原稿をアップする際に一緒に公開するのでその時はこのブログからもリンクします。
ヘッド博士の世界塔
昼はフリッパーズのヘッド博士、夕方はファーリーズの『ファントム・パワー』聴いてます。ファーリーズ(スーパー・ファーリー・アニマルズ)はいつでも最高だ。最高だが、この良さは薬理的だ。

それにしても調子悪い・・・とにかく手の平がパックリ割れてしまったのが身体的にも気持的にも痛い・・・これからバイトなのに飲食店。やだーー。やだよ痛いのー。手荒れの果てにアカギレ→パックリなんて・・・普通すぎる秋だ。

それにしても進まぬ註釈、どうして余計な事をしたがるのかを考える事のが先決だろうか、素晴らしい写真やアートを見ると心が落ち着くのは、自分の可能性というか落ち着きどころに対して思いを馳せることが出来るからだろう。こうしてダラダラであれログを残す事で可能性をも残していこうという目論み・・・。上手く行くだろうか、それにしても鬱っぽい・・・今のところそういう病識はないのだが、普通すぎる秋。元気が好きなのだが、結局のところ手の痛みが全部に作用してらっしゃる様子だ。
ファントム・パワー
何にせよ「忘れている」場合じゃない。忘れそうになったら本気で体を起こさないと、一生元気から離れるぞ。快適が一番だよ。それだけが欲しいよ。薬理も自虐もやだよ。でもロックはいいなーーファーリーズ。今6曲目だ。ともあれエロスの落としどころを探る事とどうして余計なことの先を考えなければ、いや、それはもしかすると同じ問題だぞ。ともあれ『ファントム・パワー』は本当に凄いなこれ。借りてきたんだけど買おうかなあ。

頑張れ俺。このサイトは私を応援します。

バイトを何とか終えて帰って来て、バイト中に気付いたことをいろいろ書き留めて今に至り・・・手が痛い・・・。今ASHの『バーン・ベイビー・バーン』聴いてる。最高だ。


1102註釈

まず何であれ、スタートする事が大事なのだ。
書かなければならないということはわかっていて、そうしないと文章が始まらないことをもうすでに十分に身をもって知っているはずなのになかなか出来ずにいるのは本当に重要なことを忘れているからか?よくわからない。本当に重要なことってなんだ?あ、一人語りか。
このエントリーは、本来であればとあるイベント・レポートのために人知れず書かれるはずのもので、推敲を繰り返して公開されるはずであったのだがどうしても誰かに読まれるという目的、エロスを持たないでは書き始められなくてそれで結局こうしたブログ上で書くことになっています。頑張れ、俺。

アートの本をいくらか読んでいたら、アートは面白いのだが日本のアートは荒野に近い。というか全然面白くない。日本人には面白い人がたくさんいる(はずな)のに、アートとなるとつまらなくなるのはどうしてかと考えると、そういうカテゴライズ自体がこの国では現在のところ間違っている、成り立っていないということなのだろうと思う。単にアートがもっと金になったらアーティスト志望が増えていいのだろうか。奈良さんや村上さんのようなスターがもっと増えたら良いのだろうか。せめて外国の(あるいは昔の)カッコいいアーティストをもっと紹介する機会が増えたらいいのだろうか。哲学同様、アートは人間を絶対に元気付けるものなのでそこら辺を何とか開拓したいところだ。
とはいえこのように言わばアート部外者のような人間がアートはどうこうと今さらのようにしてグダグダ言うのは、下北再開発について後から入植してきた人間が地元の意見もないがしろに自らのファンタジーを遺すべくウダウダ騒ぐのと近い気が凄くする。それがいいとか悪いとかじゃない。ただみっともないというだけなのだ。意見を闘わせより深いレベルで問題をこなすことは重要だが意見の違う相手を異民族のごときわからず屋として捉え馬鹿にするような姿勢はやっぱり醜い。
重要なのは、意見を表明して真正面からそれを吟味し合うことでそれ以外にはない。

ここには書かない原稿で、イベント・レポートの具体と、懐かしいメロディの退屈と快楽について書く予定。昨日は思いのほか早く寝てしまったので、今日はやんなきゃな。

語り掛けるということが肝要で、どれだけひとり言の体をとっていたとしても、それはやはり他人への呼びかけである。これがどこまで届く呼びかけで、どこまで届くことを意識されているのかと言えばよくわからないのだけど。道具としてまたどこまで活用しやすいものであるか、僕に適したものであるのかはよくわからないのだけど。

気がつけば僕はどうやら、遺言を書いている。
といってもそれは必ずしも、僕が死についてばかり考えているからというわけでもない(考えてもいるのだが)。僕はつまり、世界の始まりのことについてばかり考えている。時間をいつまでも遡って辿り着ける場所、それは一体どこなのか。僕が考えたところによれば、それは「確認する事の出来ない、想像する事でしか存在しない場所」であり、「わからない」である。そして、おそらく我々総ての生物は、その「わからない」を根拠に存在している。
はっきり言って、そんなこと考えて生きてる人なんてどれだけいるだろうか。といっても、僕は別にそれを考えずに生きる事が悪いことだと言ってるわけではない。むしろ大事なことはそれとはちょっとズレた場所にあって、大事なことは、今ここに生きているということを何よりも大切にするということだ。「わからないこと」については、この生が終わってからでも考えれば良い、と言いたいぐらいに、「今ここにある生」の重要度は高い。しかしまた同時にやはり、「今ここにある生」の重要度を、よりありありと自覚するためには、その「我々がわからないを根拠に存している」ということを意識する事が有効にもなってくる。
気がつけば、僕はどうやら遺言を書いている。
イベント・レポートの註釈を書き始めた頃、チェルフィッチュの稽古場を見学させてもらったその日以降のことだと思う。本当に大切なことは何なのか。それは、一見バカバカしく見えることなのかもしれない。何のためにそんな事をするのかと、思われそうなそれなのかもしれない。しかし何よりも大事なのは、限られた自分の生を、限られたその時間の中で(いつがリミットであるかも知らされないその中で)、ただ使い果たすということなのだ。


1020

 このサイトで僕がやりたいのは、自分語りです。この他でやっている自前サイトからはリンクせずに、独立して進めていく予定です。
 具体的に自分語りとはどういうことかというと、これまでの自分史を書くということで、それはあんまりにも恥かしいので、それでこういうこれまでのしがらみとは関係のないところでいろいろ書いてみるわけです。
 とはいえ、パブリック設定にしているしハンドルにはこれまでのものと繋がりを持たせているし或いは検索等から発見されるかもしれないしという可能性を考慮した上でのエントリーなので、見てもらいたいなって気持もあったりします。